卒業礼拝の中止。
中学校へ旅立って聞く子どもたちを、我々は送り出すことさえできなかった。
終業礼拝の中止。
新たな学年に進級する子どもたちに、我々はケジメとして、最後の礼拝をお捧げすることができなかった。
痛恨の極み。
そう表現することしかできない。
我々は、子どもたちになにをしてくることができたのだろうか。
我々は、新しい世界に旅立って行く子どもたちに、本当に必要な力を身につけさせることができたのだろうか。
それは学力という、狭義の力などではない。
もっと大きな意味での力だ。
学校が学力を問われることは、必然かもしれない。
明治政府によって、国家の政策として学制として始められた学校。
国家にとって有用な力を学力として身につけさせることは、自明の理なのかもしれない。
学力はアメリカのアセスメントテストの日本語訳にすぎないという佐藤学氏の指摘を待つまでもない。
学力は、その語源から見ればテストで測れる力に集約される。
我々が目指すべきは、テストで測れる学力なのだろうか。
次のステップで、受験を経て同じく席を並べる子どもたちと、同じ尺度で子どもたちに何かを与えることが、我々の使命なのだろうか。
文科省の唱える「生きる力」は、学力とはなり得ない。
「生きる力」が、テストで測れる力では、あってはならないからだ。
テストで測れる力は、技術によって、ある程度は高くなる。
解答を導く技術を身につけ、その速度をあげれば、テストで点数を取ることは容易だ。
もしそれが困難を極めるならば、営利を目的とした塾や予備校は、成り立つ余地が無くなるだろう。
学力とはいう名の下に、テストで測ることのできる力の養成に邁進してきたとすれば、それは我々が容易に道を選択したことにつながってしまう。
容易な道を選択したとするならば、我々は、手抜きという謗りを甘んじて受け入れなければならないだろう。
我々が目指すべき力は、学力をベースとしたその先にある本来的な意味での「生きる力」なのではなかろうか。
文科省が学習指導要領の中で規定する「生きる力」がその一部を明示してくれてはいるだろう。
しかし、それだけでは本当の意味で「生きる力」とはならないだろう。
あらゆる苦難を自分で乗り切っていく力。
それは、苦難に直面したいまだからこそ、明らかにできるような気がする。
日本列島全体とまでは言えないかもしれない。
いまの日本は、敗戦後に始めて迎えた未曾有の危機に瀕している。
連日連夜の報道に、その惨状は詳しい。
危機に瀕しても、勇気を持ってそれと向き合っていく力。
これも「生きる力」と呼ぶにふさわしいものだろう。
危機から目を逸らさず、真っ正面から向き合っていく姿勢を身につけることが不可欠だろう。
逃げること無く、真摯に向き合いその時に思いつく、最善の策を模索し、苦難に立ち向かっていく力強さを教授することができなければならない。
楽観視することも、時には必要だろう。
だからといって、危機に向かって、常に楽観視を続けることは、逃げ続けることと同意であるように思えてならない。
危機だからこそ、本当の力が試される。
危機だから、品格ある対応を求められる。
危機だからこそ、それに立ち向かっていく力強さを大切にしなければならないだろう。
そういう力が身につく子どもたちを育てなければならない。
いま、我々は本当にそういう子どもたちを育てているだろうか。
未曾有の危機に瀕した日本にあって、もう一度、深く考え直さないといけない。
我々が目指すものはなにか。
いま為すべきはなにか。
それが判断できる人材を育てるシステムを目指さなければならない。