たくさんのお客さんに緊張!

もともと、人前で喋るのは苦手。
出来れば喋りたくない。
最近は、「雑談」も苦手になって、人との話がなかなか花咲ない。

昨日の研修会。
偉い人に伺って、レジュメのコピーは40部。
つまり、参加者が40名程度という見込み。

始まってすぐに、レジュメが足りない。
どういうこと?

10部増刷。
それでも足りない?

さらに10部追加。
とということは、50人以上の方々が来られたということ。

当初の最大の参加者予想よりも10名以上もおおい参加者。
今年から「メディア教育部会」になった「視聴覚部会」。
教科に属さないので、参加者が減る一方。

明日の授業に直結する内容とは受け取られず、苦戦をしいられていました。
どうせならたくさんの人に参加して欲しい。
それが運営委員というもの。
企画を立てて、頑張って準備をしても、運営委員だけというのは寂しいですからね。

今回はちょっと刺激的な内容にしてみました。


教室のテレビを電子黒板にする方法。


刺激的でしょ?
かなり思い切った題名で報告をしました。

やっぱり、題名なんですよね。
イラシャッタ方々が絶望しなかったことだけを、切に願っています。

4月頭にぎっくり腰に。
それからおよそ2週間。

やっと手摺を持たずに、階段の上り下りができるようになった。
これまでは、エレベーターで上り下り。
急いでいる時に、階段を使うと激痛が走ることも。

電車で町田駅から立ちっぱなしだと、腰が重い。
それは今でも感じるものの、痛みはかなり引いてきた。
声を出すのも嫌になるほどの痛み。
鎮痛剤で抑えて、お仕事するのがやっと。

違和感はあるものの、通常で痛みを感じなくなるまで2週間。
一度壊すと、時間がかかる。

腰を使わないというわけにはいかない。
立っていても、座っていても腰には力がかかっている。
寝ている時だって、ほんの少し不自然な格好になっただけで、激痛が走る。

腰は要。
漢字もそうだよね。
にくづきに要。

身体の要は腰だということを、改めて実感。
無理は禁物。
無理をして後戻りしては意味がない。
ゆっくり痛みと付き合って、早く違和感も消えるようにしないとね。

仕事はやっぱり身体が資本。
肉体労働ということを実感。
身体を壊すたびにですけどね。

荷物も最小限度。
MacBook Airだけ、と言っても良いほど。
念のため、の荷物を削って、極力、軽くしてみた。

なんとかなるもんだなぁ。


荷物が少なければ・・・。


2011年度は、腰痛を抱えて不安のスタート。
2010年度で終わりにしたこと。
2011年度で終わること。
まだまだ遠いけど、2012年度の始まりには、新しいスタートが切れるように準備の1年と位置付けたはず。

心の糧を新たに生み出して、新しいスタートがきれるように準備中。
腰痛は、ちょっと計算外。

やっと痛みが消え始めたので、無理をしないで頑張ろう。

午後4時ごろ。
瞬く間に空が真っ暗に。
暗雲が立ちこめて、雷もなったような気がした。

気がつけば雨。

結構、激しく降っていました。
突然の気象変化。
良い気はせずに、胸騒ぎ。

また地震でもこなきゃ良いけど。


3月11日以来、胸騒ぎがすると地震と結んでしまう。
良いことではないとわかっていても、こう余震が続いては、地震が頭から離れない。

取り越し苦労になって欲しいという望みも虚しく、会議中に不気味な揺れ。
かなり長い時間揺れ続けたような気がした。
その後も何度かグラグラと。

今日の地震も、余震かな。
それとも新たな地震かな。


こうグラグラが続いては、落ち着かない。
不安は不安を呼び込むので、どんどん不安になっていく。
困りましたねぇ。

一旦、おさまったと思ったら、グラグラ。
こっちを油断させないように、弄ばれているよう。
心が休まる暇がない。

いつまで続くのでしょうか、このグラグラは。
その度に交通網が乱れては、救えるものも救えなくなってしまう。

忘れられると悲しいなぁ

よく忘れられると。
存在が忘れられる。

怒りよりも悲しみ。
哀しみ、かなぁ。

自分のしていることに意味がない、と言われたようで悲しくなる。
忘れられるというのは、存在の否定。
存在の否定は、価値の否定。

ここにいる意味を否定されたのと同じような気がする。
自分はいったい何をしてきたのか、と問い直したくなる。
悲しくなる。


よくあることだけど、その度に悲しくなる。
悲しみのやり場がない。
だから怒りに変換されてしまう。

悲しみは悲しみのまま、考え続けることにする。
悲しみを持ち続け、できることを淡々とこなしていくことにする。

忘れられる程度の存在。
繰り返し、繰り返しそんなことが起これば、自分は必要とされていないという気持ちになってしまう。


自己意識と、他者評価が食い違っているのだろう。
自分では、限界ギリギリまで頑張っている。
かなり良い仕事しているつもりなんだよなぁ。
でも、周りはそう見ていないんだろう。
必要不可欠の人材という評価がされていないということだろう。
まだまだ足りないっていうことなんだろう。


自分は限界ギリギリ。
いつでも常に、限界ギリギリの綱渡り。
それでも足りないといわれれば、無理としか応えられない。
もうこれ以上は無理ですよ。
時間と労力は、限界。
これ以上の負荷をかけられたら、倒れて散ってしまう。

じゃあ、わすれられても仕方ないのかもしれない。
昨日、忘れられたのはショックだなぁ。
本当に、ショック。
悲しいとしか表現のしようがない。

6時半を回って、忘れられていることに気付いた時には、愕然とした。
完全に忘却の彼方。
廊下の電気まで消されていた。
階段の電気も消され、建物全体が真っ暗闇。

そんななか、たったひとつ電気がついていた視聴覚室。
どうやら視聴覚室も、忘れられ電気や空調もつきっぱなし。
忘れられて悲しかっただろうなあ。
撤収さえされないで、忘れられたことはさぞや、辛かったでしょう。
電気がついたまま、何も手の加えられていなかった視聴覚室の哀しみがよくわかった。

これって「しかと」。
「しかと」は虐め?
そうかあ、虐められていたのか!
そういう現実を考えれば考えるほど、悲しくなる。

帰りの電車が土曜日で、順調に流れていたから幸運だった。
これで電力難民になって、帰宅できなかったら目もあてられない。

自分にできることはちっぽけなこと。
そういう認識でしか捉えられないこと。

ちっぽけなことでも、続けなくちゃね。
小さな歯車だって、なくっちゃ困るんだから。

卒業礼拝の中止。
中学校へ旅立って聞く子どもたちを、我々は送り出すことさえできなかった。

終業礼拝の中止。
新たな学年に進級する子どもたちに、我々はケジメとして、最後の礼拝をお捧げすることができなかった。

痛恨の極み。

そう表現することしかできない。
我々は、子どもたちになにをしてくることができたのだろうか。
我々は、新しい世界に旅立って行く子どもたちに、本当に必要な力を身につけさせることができたのだろうか。

それは学力という、狭義の力などではない。
もっと大きな意味での力だ。

学校が学力を問われることは、必然かもしれない。
明治政府によって、国家の政策として学制として始められた学校。
国家にとって有用な力を学力として身につけさせることは、自明の理なのかもしれない。

学力はアメリカのアセスメントテストの日本語訳にすぎないという佐藤学氏の指摘を待つまでもない。
学力は、その語源から見ればテストで測れる力に集約される。

我々が目指すべきは、テストで測れる学力なのだろうか。
次のステップで、受験を経て同じく席を並べる子どもたちと、同じ尺度で子どもたちに何かを与えることが、我々の使命なのだろうか。

文科省の唱える「生きる力」は、学力とはなり得ない。
「生きる力」が、テストで測れる力では、あってはならないからだ。

テストで測れる力は、技術によって、ある程度は高くなる。
解答を導く技術を身につけ、その速度をあげれば、テストで点数を取ることは容易だ。
もしそれが困難を極めるならば、営利を目的とした塾や予備校は、成り立つ余地が無くなるだろう。

学力とはいう名の下に、テストで測ることのできる力の養成に邁進してきたとすれば、それは我々が容易に道を選択したことにつながってしまう。
容易な道を選択したとするならば、我々は、手抜きという謗りを甘んじて受け入れなければならないだろう。

我々が目指すべき力は、学力をベースとしたその先にある本来的な意味での「生きる力」なのではなかろうか。
文科省が学習指導要領の中で規定する「生きる力」がその一部を明示してくれてはいるだろう。
しかし、それだけでは本当の意味で「生きる力」とはならないだろう。

あらゆる苦難を自分で乗り切っていく力。
それは、苦難に直面したいまだからこそ、明らかにできるような気がする。

日本列島全体とまでは言えないかもしれない。
いまの日本は、敗戦後に始めて迎えた未曾有の危機に瀕している。
連日連夜の報道に、その惨状は詳しい。

危機に瀕しても、勇気を持ってそれと向き合っていく力。

これも「生きる力」と呼ぶにふさわしいものだろう。
危機から目を逸らさず、真っ正面から向き合っていく姿勢を身につけることが不可欠だろう。
逃げること無く、真摯に向き合いその時に思いつく、最善の策を模索し、苦難に立ち向かっていく力強さを教授することができなければならない。

楽観視することも、時には必要だろう。
だからといって、危機に向かって、常に楽観視を続けることは、逃げ続けることと同意であるように思えてならない。
危機だからこそ、本当の力が試される。
危機だから、品格ある対応を求められる。
危機だからこそ、それに立ち向かっていく力強さを大切にしなければならないだろう。

そういう力が身につく子どもたちを育てなければならない。
いま、我々は本当にそういう子どもたちを育てているだろうか。

未曾有の危機に瀕した日本にあって、もう一度、深く考え直さないといけない。
我々が目指すものはなにか。

いま為すべきはなにか。

それが判断できる人材を育てるシステムを目指さなければならない。

メディアの怖さを実感した日々

テレビで刻々と流される災害情報。
自分は刺激が強過ぎて、見ていられない。
そこに同化してしまい、恐怖が増幅されていく。

情報として、災害情報は手に入れたい。
福島県の原子力発電所の事故が身終息段階だからこそ、情報は欲しい。

しかし、惨状をハイビジョン映像で目にすると、ただごとではいられない自分がいる。


幸い我が家の子どもたちは、録画した子ども向け番組で時間を潰している。
被災地の惨状を目にするのは、我々がニュースを見る時だけ。
子どもたちにも、記憶として地震災害をきちんととどめておいて欲しい。
それでも、テレビから流れてくる映像は、あまりに刺激が強く心への影響が気になる。

イメージとして膨らませ、それが現実と同化してしまえば、心的な影響は計り知れない。
事実を事実として認識することは重要。
しかし、想像力を駆使して、拡大解釈が進んでは心を傷つける要因になるように思えてしまう。

メディアというのは恐ろしい。
事実を伝えてはいるものの、配信する側によって、編集の手が加えられている。
そういう認識に基づいて、メディアと暮らしていかないと、危ない気がした。

リアルタイムで配信される利便性と、心への影響。
子どもだけでなく、大人だって無関係ではいられない。

メディアとのより良き関係のために、考え直さなければならないことが多くある。
子どもたちにメディアのあり方を伝えていく立場にあるものとして、そういう認識を強く持つに至った。

大きな被害が出てしまった地震。
まだ被害の全貌は明らかになっていない中で、途轍もない被害に心は千々乱れる。
亡くなられた方々。今だ不明の方々。それを思うと心が悼む。

東京でも、震度5を記録する強い地震。
多分、こんな揺れは生まれて初めての経験。
起こった時には、茫然自失で、何かがまったく理解できなかった。

揺れというものが、こんなに恐ろしいものとも知らなかった。
古くは関東大震災や南海沖地震、阪神大震災や三陸沖地震など机上で知ることはあっても、体験することは全く意味が違う。
机上で知ることと、体験的な学ぶということは、こうも大きく違いがあるかと怖くもなる。

これまでの自分を反省。
いつものことが、なにも考えずに「普通」と思い続けてきた。
電車は動いていて普通。
バスは時間通りに動いていて普通。
自分の日常が、あたかも未来永劫続くようにすら考えていたのだと思う。

これはこうだ、と先入観をもって、決めつけていたことも多くあるような気がする。
こういうものだと決めつけてしまうと、人の頭はなかなか変えられない。
考えを思考という領域だけで変更しようと思うと、想像もできない労力を払わなければならない。

頭だけでなく、実際の体験を通じることで、その労苦は解消される。
電車は、誰かが動かしているから安全に運行される。
バスなんか、運転手さんが見えるんだからより一層、わかりやすい。

普通という感覚に普遍性はない。
今の自分にとって普通であることが、大きな転換を迎えることだってあるのだ。

それを教訓にして、進んでいくしかない。

規律やルールは、秩序を維持するために生まれる。
それが存在する以上、守らなければならない。
対岸からみれば、守らせなければならない。

自律的に行動することができなければ、規律やルールは、より厳格さを追求される。
厳しさの裏返しは、反自律的行動だと言うべきだ。

厳格さはなぜ必要なのか。

秩序を維持するための規律とルールが、好い加減になれば、秩序が乱れてしまうからだ。

ではなぜ、秩序は維持されなければならないのか。


相互理解の接点に秩序が生まれているからだ。
秩序の乱れは、接点の越権に生じる。
その侵食が進めば、秩序は崩壊し、無法地帯になるからだ。

まさかこんな時代が来るなんて!

日本人はどうしてこうも、免許の更新が好きなんでしょう。
運転免許や様々な免許。
教員免許まで更新が必要になってる。

生まれた年度で更新講習をするっていうのはどういうもんかなぁ。
免許の更新講習を廃止するっていったから、民主党に投じた清き一票は無駄になっちゃうし!

思うところはいろいろありますが、制度は制度。
更新講習を受講しないと、無免許になっちゃう。
大学で教職免許用の日本史を2年間も講義してけど、更新講習では学生として受講者。
学生の気持ちが少し理解できたような気もします。


年度末ギリギリですが、30時間の講習をすべての終えることができました。
もちろん、試験もすべての一発合格。
テスト、試験が苦手な自分は、講義を聞き終わっても、試験を先延ばし。

もう良いや、と受けたら合格。
これでやっと解放されました。
解放?
釈放?

とにかく重荷だった免許更新講習から解放されたことは実に目出度いことです。

下品な反応に一喝!

朝から雨。
しばらくしたら雪になって、落ち着きを失う子どもたち。

お天気が悪いと、外遊びができない。
外で遊べないと、余計なストレスがたまる。
発散する場を失ったストレスは、異様な雰囲気を漂わせ始める。

反応が下品。
提示したものへの反応が、下品な言葉で返ってくる。

1年生だから仕方ない?


子どもだからなんでも良いというには、甘やかし。
節度を持って、よくない反応は厳しく指導すべきと思っています。


品の無い言葉。
これを使わないことは、学習よりも躾のレベル。
躾をする時は、気合を入れないと半端なことになってしまう。
半端になれば、思わぬ混乱を招くことになりかねない。


品性を大切にしたい。
学習も大切だけど、他に出て恥ずかしくない品性を身に付けて欲しい。
そのためには、時には厳しく躾けることも必要なのです。

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